DEATH NOTE/デスノート
前編

採点:★★★★☆☆☆☆☆☆
2006年8月8日(ビデオ)
主演:藤原 竜也、松山 ケンイチ
監督:金子 修介

自分が渡米する直前に少年ジャンプで連載が始まり、ぜひ自分の手で実写化したいと思っていたが、先を越されてしまい、DEATH GAMEを作るきっかけにもなった作品で、仕事の関係でようやく見ることができた。

将来の警視総監を目指す天才・夜神月(やがみライト)は名前を書かれた人は死んでしまう"デスノート"を使い、法で裁かれない犯罪者を次々と殺していく。その目的は犯罪のない理想社会の実現だ。一方ICPO(国際警察機構)は犯罪者の大量死を殺人事件と考え、世界中の迷宮入り事件を解決してきた謎の名探偵・Lを捜査に送り込む。
LはTV放送を利用して、殺人犯キラが日本の関東地区に潜んでいることを証明し、夜神月がキラではないか?と推理し、FBI捜査官にライトを尾行させる。一方、ライトもデスノートを使い、日本に送り込まれたFBI捜査官全員を殺す。
しかし、殺された捜査官の1人レイ岩松の婚約者南空ナオミがライトの恋人、詩織を拉致し、ライトがキラだという証拠を見せるとLに連絡し、南空ナオミとライトが対峙する・・・。

普通漫画のコミックというのは1冊あたり15分くらいで読み終わるのだが、このDEATH NOTEは1冊あたり1時間近くかかる。なぜそんなに時間がかかるか?というと、登場人物の心理描写が内面の声として、文字で描かれていて、漫画であるにも関わらず、"目で見る絵"ではなく、"目で読む文字"が多いからだ。漫画であれば、1コマの絵にどれだけ文字が書いてあっても読者のペースで読み進められる(例えば映像的には1秒の絵に読むのに10秒かかっても関係ない)が、映像はそうはいかない。絵が動きながら、そこに漫画における文字情報を詰め込まなければいけないからだ。
そんな心の声をどのように映像化するのか?というのが、この漫画の実写化における最大の難点だったのだが、この映画は心の声をすべて省略してしまった!!悪い意味で・・・だ。心の声をなくしてしまったがために、天才vs天才の頭脳戦を宣伝文句にしていたのに、まったくもって頭脳戦には見えないのだ。それどころか天才vs天才ではなく、ちょっと人より賢い大学生vs直感だけで事件を解決してきた探偵の戦いになってしまっている。

例えば、Lがライト=キラと推理する過程が、漫画ではLが脳内思考で考えていることを文字で説明しているのだが、映画ではその脳内思考をすべて省略しているので、Lの"推理"ではなく、Lの"直感"で言い当てているだけとしか思えない。
Lの見せ場は最初のTV放送だけで、それ以外のシーンではまったくもって、推理らしい推理はなく、すべて"直感"である。

一方のライトはLよりはまだ、天才っぷりを見せるシーンがあるだけ救われる。レイを電車の中で殺すシーンは漫画の中でもかなりの名場面であるが、このシーンにおけるオリジナル・ストーリーは評価できる。が、このシーンの最後「さよならレイ・ペンバー」の台詞がなくなっていたのは評価できないどころか、批判したい。この台詞は原作において南空ナオミを殺す時の「キラだから」と同じく、漫画の中で、ライトの優越感に浸る性格を端的に現す台詞なのだが、それがないため、ライトのキャラクターというものを描ききれていない。
他にもなぜポテトチップスのトリックを使ってまで、犯罪者を殺害したのか?という説明がないため、ライトが考えもなしにただ殺人をしているようにしか見えないし、この説明がないことで、Lの名推理を1つ消してしまっている。さらに部屋に誰か入っていないか?を確かめる仕掛けも、1つだけではライトはちょっと賢い人間でしかなく、世界に数人しかいない希少価値の大天才ということを描くには不十分だ。

そして最大のミスはライトが不用意に外でノートを出すこと。自分の引き出しを二重底にしてまでデスノートを隠そうとした原作のライトなら絶対にやらないことだ(この二重底のトリックも映画では削除されてしまっている)。
しかもLがTVを通して宣戦布告したシーンで、新宿の人の往来のなかで日本の大学ノートのサイズとは思えない異様に大きなノートを取り出して名前を書き込むのだ。原作のライトだけではなく、自分がデスノートを持ったとしても、絶対にやらない行動だ。それを映画のライトはやってしまっていて、原作のライトが持つ緻密な計画の上に慎重な行動を重ねるという性格をこのシーンですべてぶち壊してしまっているのだ。

そしてオリジナル・ストーリーとして漫画では"優秀"な元FBI捜査官であったはずの南空ナオミが、アメリカで銃を手にしたことがある普通の女性になってしまっていたのもあまり、いただけない。結果的にはノートに操られていたとはいえ、操られる前の行動からして、原作にあった"優秀"さは消えてしまっていて、普通の女性になりさがってしまっている。
そしてその暴走してしまった南空ナオミと強く結びつくオリジナル・キャラクターの詩織もそのオリジナル・ストーリーのつじつま合わせのために登場するだけで、それ以外の存在意義はない。はっきりいって、原作に登場するライトの付き合う女性の誰か1人でいいし、実際バスのシーンは原作ではそういう女性と乗っていることになっている。

原作であれ、映画であれ、最終的に南空ナオミは死んでしまうのだが、どちらの死に方がライト、あるいはLの天才ぶりを引き立たせるか?といわれれば、間違いなく前者だ。
原作における南空ナオミとライトの駆け引きは漫画前半のハイライトとも言えるシーンだが、それを変えてできあがったのがこの映画デスノート前編のクライマックスだと考えるとなんともふがいないし、後編に続くという終わり方としてはありだが、そこまでひきつける終わり方ではない。
原作どおりに展開していてはこれといった大きな見せ場がない、というのはわからなくはないが、自分が監督であれば、前編の終わりを「南空ナオミの死」ではなく、第二のキラの登場、そしてさくらTVでの攻防にしていた。そうすれば、盛り上がり方としても申し分ないし、続編を見たいと思わせる終わり方になるからだ。

他にも欠点を挙げるとすれば、捜査本部の人間が辞めるとき、あっけなさすぎるし、警察庁長官のキャラクターも軽い。そして"シブタク"をはじめとするその他大勢の被害者の演技が下手なために、映画全体が安っぽく見えてしまう。
そして後編に向けて不安なのが2点。まずは夜神局長の部下、1人1人のキャラ設定が薄い。後編はおそらく漫画では7巻のLが死ぬあたりまでの内容になると思うが、その中で松田の設定はすごく重要なのだが、この前編では夜神局長とその他の部下といった感じでしか描かれておらず、後編でそのあたりのキャラを描くのだろうか?
そしてもっとも重要なのが、時間配分。Lが死ぬのが原作では7巻の途中なのだが、映画の前編は3巻の始まりあたりまでしか描いていない。単純計算すると後編では5巻までしか進まないが、前後編として銘打った以上、後編で完結しないはずがない。となると後編は前編以上に心理描写が省略され、さらにキャラクターの描写も省かれて、漫画のダイジェスト的な内容になってしまいそうで怖い。
やはり、オリジナル・キャラクター詩織を登場させ、そこに時間を割いてしまったのが大きなミスだろう。原作どおりに進んでいれば、2時間で上述したさくらTVまでいけたはずだったのに・・・。

さて、批判ばかりしてきたが、良い点ももちろんある。まずはオープニング10分間。10分間でデスノートの世界観というのをうまく表現できていて、デスノートの世界に入り込むには良い出来栄えだ。
そして死神リューク。見た目の違和感は日本のCGの限界なのか?はたまた死神という誰も見たことがないものを描いている以上違和感は仕方がないのか?そこらへんは目をつぶって、なんと言ってもりんご欲しさの演技が素晴らしい!! 漫画の中でも茶目っ気のある行動をするリュークだが、映画の中でもその茶目っ気が残っていた点は共感できる。しかし、漫画では良い意味でもっとアホっぽさがあったのだが、映画ではそのアホっぽさがなくなり、漫画の面白さの1つでもあるライトとリュークの会話における笑いはまったくない。
そしてL。Lは見た目や仕草は細かい部分までこだわっていて、原作に非常に忠実なのだが、これまた上述したような心理描写がなく、直感で言い当ててるだけの天才になってしまっているのが惜しい。

何はともあれ、ダイジェスト的(?)後編を待ちたい。期待はしないが・・・。
*注:これはあくまでも原作を熟読した上での感想であり、もし原作を知らない状態でこの映画を見たとすれば、採点は6点です。

一口コメント:
オリジナル・キャラクター、そしてオリジナル・ストーリーがすべてぶち壊してしまってます。そして天才vs天才の頭脳戦はちょっと賢い大学生vs直感で言い当てる探偵の心理戦になってしまってます。

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