解 夏 |
さだまさし原作の小説の映画化。だからというわけではなく、チラシを読み、予告編を見て、失明する男とそれを支える女という設定、そして石田ゆり子に魅かれて見に行った本年度初の邦画作品。
東京で小学校の教師をしていた隆之は、ある日突然、目眩がし、口内炎が出たり、体に異常が出始める。幼なじみの医者の診察を受け、ベーチェット病と診断される。様々な症状を持つベーチェット病だが、隆之の場合は、その中でも視力を徐々に失っていくものだった。
隆之は大学の恩師に会いに行く。隆之が小学校の教師になったのは、恩師の教育論に共感したからであり、隆之の恋人は恩師の娘、陽子だった。隆之は自らの病気を告白し、自分と一緒にいると陽子が幸せになれないと思い、陽子とは別れると告げる。
その時、教育心理学を学ぶ陽子は研究のためにモンゴルにいた。
隆之は教師を辞めて、故郷長崎に帰った。隆之の病を知りながら何気なく接する幼なじみや家族に支えられ、毎日故郷の町を目に焼き付けておこうと歩く隆之の元に、陽子がやってくる。
ある日、隆之は陽子と共に訪れた寺で林という老人に出会い、一つの話を聞かされる。昔修行僧は夏の始まりの日、"結夏"の日に"行"に入り、やがて夏の終り、"解夏"の日に"行"を終えた。林は隆之に対し、失明するという恐怖は"行"だと言う。そしてその"行"を経て、失明した瞬間に恐怖から解放される、その日が隆之にとっての"解夏"なのだと・・・。
長崎で"解夏"までの日々を過ごす隆之と陽子の元に、かつての教え子たちから手紙が届く。教え子達の手紙に隆之は涙をこぼす。
そして陽子の幸せを思う隆之は別れを切り出し、陽子は東京へ帰っていった。しかし母親の「つらいのはあんただけじゃ、なかとね!」の言葉に陽子の存在の大きさに気付いた隆之は、東京へ陽子を探しに行く・・・。
まず映画を見ている最中に思ったのが、長崎という街の素晴らしさ。坂の多い街であり、路面電車の走る街であり、大小様々な船の集まる港町であり、お寺などの日本風情を残すと共に教会などの西洋文化も取り入れた和洋折衷の街でもある。
良い映画というのは、良いロケーションというものがあり、見終わった後にその地を訪れてみたいと思うことが多いのだが、この作品もそんな映画の一つである。
この作品の中で、陽子を演じる石田ゆり子は素晴らしい。自分にこんな健気な彼女がいたら・・・なぁと思わされた。時に優しく、時に頑固に、時に魅力的に、人間の持つ"喜怒哀楽"の全てを見事に演じ分けている。しかも同じ台詞でそれを表現しているのだから・・・。
一度目は父親からの手紙を読み、隆之が別れを切り出したことを知り、モンゴルから帰ってきて、「私の心の中が見える?」といった意味で言うシーン。隆之の「俺と一緒にいても幸せになれない」との発言に対し、「私の幸せを勝ってに決めないで!」と言い残し、去っていく。陽子の"怒"を表したシーンである。
二度目は隆之を追いかけて長崎に来て、再会したシーン。「あなたのその目に私が見える?」という、本当の意味で見える?という投げかけをするシーン。隆之との再会を"喜ぶ"と同時に、これからの長崎での生活を"楽しみ"にしている陽子の心情を見事に表している。
そして最後は作品の最後でもある。隆之に"解夏"が訪れ、「まるで霧の中にいるみたいだ」と隆之が言ったそのときに「隆之、私のこと見える?」と、「あなたの心の中に私が見える?」といった意味で"解夏"の訪れた隆之、そして自分自身に"哀しみ"を感じると同時にまた別の感情を表現しているようにも思えた。
その感情が何なのかは劇場で確かめてください。