THE WINDS OF GOD |
日本で10年以上にわたって、舞台公演されていた作品が映画化され、さらにはアメリカでの上映にいたった・・・ということ+前売り券が手に入ったので、見に行った作品。
現代のニューヨーク。アメリカ人のマイクとアメリカ人と日本人のハーフのキンタはコメディアンとして成功することを目指していたが、ある日、勤めていたライブハウスをクビになってしまう。その直後、彼らは交通事故に遭う。
2人が意識を取り戻すと、なんとそこは1945年8月1日、第2次世界大戦末期の日本。しかも2人はアメリカ人ではなく、神風特攻隊に所属する日本人の兵士になっていた。
2人はなぜ自分たちがタイムスリップしたのか?戸惑いながら、戦争という大儀の前、任務遂行のため命を差し出すことを余儀なくされた若者達の苦悩を目の当たりにする。そして、その中で突然に突きつけられる「死」という現実。
ある者は任務に忠実に、ある者は神に祈り、ある者は心の奥に疑問を抱きつつ、それでも零戦に乗り、空に飛び立っていく。 過去と未来の挟間で運命に翻弄され、己の無力さに歯がゆさを感じる。
そして2人もついに零戦に乗る日がやってきた―――?
アイデアが非常に面白い!!タイムトラベル自体は過去に何度もあったし、人格が入れ替わるという設定も過去に何度となくあった。しかし、その両方を取り入れた映画が過去にいくつあっただろうか?
その点において、この作品は現代のニューヨークという、ある意味で平和ボケした時代から、戦時中真っ只中の時代にタイムトラベルするだけでなく、アメリカ人が日本人になってしまうという設定は素晴らしい。
素晴らしいのだが、今井監督曰く、アメリカで上映するために敢えて全編英語にしたという点が大きな問題を生み出している。というのは、台詞は英語なのだが、建物に貼ってある紙や、手紙などはすべて日本語であるという点。口で話し、耳で聞くものはすべて英語であるにも関わらず、目に映るものはすべて日本語というおかしな状況が生まれ、それゆえに作品に感情移入しにくくなってしまっている。
全編英語にするのであれば、そこら辺を踏まえて、登場する小道具も英語に、それができないのであれば、やはり全編日本語にするべきだったのではないだろうか?
さて、一方役者陣。主役の2人は舞台出身ということもあり、ちょっと演技がくさい気がしないでもなかったが、戦時中ということで、逆にそれがはまっているといえば、はまっているように思えなくもない。
また助演男優とでも言うべき、渡辺裕之の英語はかなり上手い。演技に関しても無難でベテラン俳優人の中ではもっとも安心して見ていられた。
逆に若手俳優人はとても良かった。中でも学者肌の兵士で、リンカーネーションの理論を説いていた彼は、英語はネイティブ並みで、演技に関してももっとも感情移入ができた。今後が楽しみな俳優である。
演出に関しても触れておこう。前半は特に問題なく進むのだが、半分くらいを過ぎたあたりから、映画が駆け足になっていく。1日1日、若手兵士が零戦に乗っては死んでいき、その代わりに中学生や高校生が補充されてきては、また死んでいく。その1人1人にスポットを当てているために、1人1人の時間が短い上に、1人が死んでから、その余韻に浸る時間がなく、観客の心を置いてけぼりにして、物語は先へ先へと進んでしまうのだ。
これに関しては、もう少し、余韻に浸る時間というものを設けてほしかったというのが、正直なところだ。
日本独自の映像・文化・景観、そして、今や世界で1機しかない本物の零戦、さらにはニューヨーク・グランドゼロでの撮影は、 世界で初めてというおまけつきのこの作品。実は、この映画は監督である今井雅之の思いがぎっしりと詰まった作品でもある。特に、寿司店のカウンターで「神風は民間人は狙わなかったんだよ」とキンタがマイクに教えるセリフは、彼が込めた大きなメッセージだろう。
何度か彼が力説していた中に、以下のようなことがある。
"休演宣言した後、沖縄で休んでいたら『9・11』がありました。ある報道を見たらビルに突っ込む画に<カミカゼアタック>の見出しがついていたんで……ムッとして。それよりも腹だったのは、それに対して日本政府もマスコミも誰もクレームを言わなかったことなんです。そしたら俺、また出てきちゃった!「あの特攻隊員たちが可哀相だ、誰か代弁してやれよ」って。またイメージ悪くなるじゃん。民間機を乗っ取って、罪のない人たちを人質にして、モーニングコーヒーを飲んでいるサラリーマンに突っ込んで、何が神風だよ。"
というわけで、今井雅之の反戦に込める魂の入った作品です。