I C H I 市 |
綾瀬はるかが勝新太郎、北野武に続く3代目座頭市を演じるということで、話題になっていた作品。
一人で旅をする女・市、三味線を弾きながら唄う盲目の旅芸人。人と関わりたくない市は、同じ盲目の女が男たちに襲われていても無関心。その男たちに市が襲われようとした瞬間、藤平十馬という侍が止めに入るも、なぜか彼は刀を抜くことができない。その瞬間、瞬く間に男たちが斬り捨てられてしまう。市が仕込刀を一閃したのだった。
とある宿場町に辿り着いた二人は、町を荒らす万鬼党と戦うことになるが、無類の強さを見せていた市だったが、無残にも万鬼党のリーダーに返り討ちに遭い、つかまってしまうのだった―――。
"綾瀬市、いける!"、これが見ている最中の感想。
"もったいない"、これが見終わった後の感想。
どちらかというと天然、癒し系の綾瀬はるかだが、見ている最中はその殺陣の美しさにどんどん引き込まれていった。男性が見せる"鋭さ"と"力強さ"が売りの殺陣に対し、綾瀬が見せたのは"スピーディーさ"と"妖艶さ"を取り入れた殺陣。
最初は人を斬る度に刀を杖に戻す仕草を何でそんな面倒くさいことをしているのだろう?と思っていたが、"居合い斬り"を身上とする市としては、この仕草が必然だということが、物語が進むにつれてわかってくる。そのスピーディーな抜刀と効果音の助けもあって、見ている側もどんどん引き込まれていく。実際、美女なのに目が見えない=襲い放題、ってことで、冒頭、予想通りにいきなり男に襲われる市。そして、抜刀の音が鳴り響く。
「なに斬るかわかんないよ、見えないんだからさ」
という台詞で一気に、物語に引き込まれた。
そして女性が刀を持つという意味。男性なら刀の変わりに殴ったり、蹴ったりというのもありなのだが、綾瀬市にはそれはない。だから刀のみに頼る。そこに綾瀬の澄んだ瞳の力が加わり、刀を持った女性という不思議な魅力が加わり、"何か"を期待してしまう。
返り血をまったく浴びないのはなぜ?と思ったりもしたが、そこは女性に返り血は似合わないっていう意味の演出なのだろうと、無理やり自分を納得させる必要があるのだが、そんなことはどうでもよくなるほど、殺陣のシーンは格好良い。
オープニングの抜刀シーンは敵の背中などを利用して、実際の抜刀シーンは上手く見せないようして、観客の聴覚のみを音だけで演出し、何かすごいぞ、こいつは!と思わせておき、物語が進むにつれて、徐々にその太刀筋を見せていくという演出は素晴らしい。物語に引き込む手段としてはとても上手い。
そしていよいよ全景が見えてくると、スローモーションとCGによる流血を絶妙に組み合わせて、スローモーションも引き絵で見せているので、どういった斬り方をしているのかが、非常にわかりやすいし、時代劇の伝統を継承しつつ、最新の映像表現も取り入れているという素晴らしい演出です。
ただし、始めはすごい!と思ったスローモーションの殺陣も、そればかりが繰り返されて、最後の方はやや飽きてしまいました・・・。
斬り手としての市は素晴らしかったし、殺陣だけでなく、三味線もスタントなしで演じきったという綾瀬の役作りは素晴らしいものがあるが、映画としては三味線を弾きながら歌を歌う必要はなかったのではないだろうか?歌が上手いとか下手だとかそういう意味ではなくて、市というキャラクター設定の問題で、歌を歌わない方がより人と接することを嫌うという"市"の性格が際立つし、歌だけではなく、できることなら最初から最後まで無言のままでも良かったのではないかとすら思う。"市"が本来語るべき台詞はすべて、十馬に語らせれば良いし、実際そういうシーンもあったし・・・。
同じように演出側の問題として、時折、市が回想するシーンがあるのだが、回想すること自体は良いし、市がなぜ天涯孤独になったのか、市が消息を探している育ての親の座頭市らしき人物のことなどが次第に明らかになるというやり方も上手いのだが、それを回想シーンとする必要はない。なぜなら回想シーンの直後に口で同じ内容を説明しているから・・・。どうしても回想させたいのであれば、口での説明をなくすべき。そうすることで上述したような無言で際立たせる市に、より近づくことができる。
市以外の役者に関しても書いて見よう。まず、オープニングの佐田真由美演じる娼婦。将軍様が存在しているような時代にこんな外人顔した女性が、しかも娼婦として存在しているのはどうなんでしょう?もうちょっと他のキャスティングはなかったのでしょうか?正直、そこまで重要なキャストではないので、そこまで力を入れなかったのかもしれないが、映画の冒頭でいきなり余分な違和感を与えているのは間違いない。
大沢たかお演じた十馬に関しては、そのヘタレ具合も、その理由付けも素晴らしい。そのヘタレ具合と理由からして、最後の最後でとてつもない強さを見せてくれるのだろうと思っていたら、予想通りの展開になるが、そこは彼の演じたキャラの嫌味のなさもあり、ぜんぜん違和感なく見られた。
ただし、最後の対決シーンだけは演出側の不手際が2つほどあった。まず1つ目。十馬が斬られたというのが映像的に非常にわかりにくい。万鬼に刀が刺さっているのは映像に明確に映し出されているのだが、十馬に関してはその映像がないし、十馬のリアクション・ショットもないまま、倒れてしまうので、なんで倒れたの?と思ってしまう。
2つ目も同じシーンなのだが、その倒れた直後の衣装は血がついているのに、倒れる直前の衣装には血がついておらず、ますます我々観客を混乱される。こんな初歩的なミスを誰も気がつかなかったのだろうか?
そしてならず者集団、万鬼党。頭に中村獅童、サブに竹内力という、新・悪役商会と言っても過言ではないような面子が揃い、このキャスティングに関してはもう素晴らしいの一言。
しかしそれに対峙する宿場の2代目、窪塚の演技はちょっと・・・。どこからどう見ても窪塚なんですけど・・・。他の役者も現代口調で話をしている部分もあるが、ほとんど気にならない中、なぜか窪塚の口調だけは妙にひっかかる。考えて見れば、他の役者が部分部分に現代口調を入れているのに、彼だけが最初から最後までずっと現代口調だ。これは白ける。
そして、最後の決戦前に仲間に平手打ちくらわして、俺にも一発やれ!といったやり取りもやや興醒め。彼の役どころがもっと重要な役どころとして描かれていれば、このシーンもありだったのだろうが、正直、そこまで重要な役どころではなく、市・十馬・万鬼の主要3人との間に大きな壁がある役者が最後の最後だけ主要キャストになってしまったかのような演出。必要だったのだろうか、このシーン?
そしてこの作品の一番の見せ場でありながら、やや不満が残った最後のシーン。十馬が相討ちのような形で万鬼の胸に刀を突き刺したにも関わらず、不死身の貞操で市を襲う万鬼。しかし十馬に斬られた足の痛みから、逆に市に斬られてしまうのだが、最後がそういう風になるのであれば、十馬は相打ちではなく、あくまでも万鬼の足を斬りつけるだけで、胸に刀を刺さないほうが、万鬼の強さが際立つだけでなく、十馬が無残に殺されて、秘めたる力を解放させる市、という図式が成り立っていただけに残念だ。
そして最後に万鬼の顔を見せたのは蛇足。顔から切り離された仮面を見せるだけで十分。なぜなら市は目が見えないのだから・・・。
後は全体的な問題として、洋楽の使用。なぜ時代劇に洋楽?という違和感が非常に際立つ。「隠し砦の三悪人 THE LAST PRINCESS」のような時代劇ファンタジーのような作品ならまだしも、ガッツリとした時代劇に洋楽を持ってきたのは最後まで違和感が拭えなかった。
そして何といっても歩きすぎ、回想しすぎ。途中やたらと歩くシーンを入れたり、回想シーンを入れたりして、無駄に時間を引き延ばした結果、2時間近い上映時間となっているのだが、歩くシーンと回想シーンを削って100分くらいに納めて欲しかった。そうすることで、ダレルことなく最初から最後まで良いテンポを保ることができたのではないだろうか?
そして途中何度も出てくる鈴の使い方が下手。せっかくのキー・アイテムが台無しである。
ただ人物の描き方に関しては物語の最初と最後が上手く対比されていて、市の成長がとてもよく伝わってくる。
「自分が歩く時の灯りはいらない」と言っていた市。そんな彼女が最後の最後に「私にも灯りは必要だった」と言う。
誰も助けず、誰にも助けられずに一人で生きてきた市。そんな彼女の前に盲目だった母と市を重ね合わせる十馬が現れる。万鬼によって、暗闇に捕らわれていた市に手を伸ばし、身も心も暗闇の世界から市を救い出す。
このあたりの人間関係の描き方は本当に素晴らしかった。
もし続編が作られるのであれば、市の役作りはこのままに演出側の人たちに更なる高みを目指してもらいたい。歴史的な名作になる可能性を秘めた素材であるのだから・・・。