2002年5月12日(日)  「私のW杯ヒストリー」


さて、私がはじめてW杯のことを知ったのは1990年イタリア大会のときでした。当時 小学校6年生だったのですが、深夜番組をビデオに録画して見ていました。それを学校に持って 行ってサッカー部の仲間に見せたりもしました。この大会で一番印象に残っているのが、 決勝トーナメント1回戦アルゼンチン対ブラジルの試合です。1対0でアルゼンチンが勝ったの ですが、その1点が素晴らしかったです。中盤でボールを持ったマラドーナが相手選手を ドリブルで抜き去り、3人の選手がボールを奪いにきたその瞬間に相手DFの股を抜いたスルー・ パスを出しそれを走りこんだカニージャが決めました。このパスを見て点を取るよりも点を 取らせる決定的なパスを出す楽しさみたいなもの、ゲームメークの楽しさを知りました。その時、 得点を決めたカニージャが今大会のアルゼンチン代表に選ばれました。彼のプレーを見れるかも しれないということで楽しみが1つ増えました。

決勝ではそのアルゼンチンのマラドーナを押さえた西ドイツが優勝し、監督のベッケンバウアーは 選手としても優勝経験があり、いまのところ選手、監督の両方でW杯優勝をした唯一の人間です。
次の94年アメリカ大会を語る上ではずせないのがやはりアジア予選における日本代表です。ドーハの 悲劇としてW杯における日本代表の歴史に永遠に刻まれることになりました。当時中学3年生だった 私ですが、翌日はその話題で持ちきりだったことは今でも鮮明に覚えています。
本大会はブラジルの4度目の優勝で幕を閉じたわけですが、国連の制裁で大会参加を許されなかった ユーゴスラビアが参加していれば、この結果も変わっていたかもしれません。というのも ユーゴスラビアはユーロ’92の幻の優勝国(予選1位だったが制裁により本大会参加が禁止され、 変わりに出場したデンマークが優勝した)だからです。日本でもおなじみのピクシーが全盛期だった 頃でもあり、出場していればピクシーの大会になっていた可能性大だったわけです。その後 ユーゴスラビアは消滅し、その中の一国であるクロアチアが98年フランス大会において3位に なったことを考えると悔しい以外何ものでもありません。

その98年フランスでは開催国フランスがジダンを中心に初優勝を遂げました。日本代表が初めて 出場したW杯でもあり、大会直前でカズがはずされたときには連日ニュースで取り上げられ、社会 問題にもなりました。本大会では3戦全敗の1ゴールのみという結果に終わりましたが、この大会後 中田をはじめ、名波、小野、稲本、高原らが海外移籍への道を開きました。またこの大会では "20世紀最後の怪物"と呼ばれたブラジルのロナウドの活躍が期待されていましたが、それほどの 活躍はできないまま大会は終わりました。その代わり"21世紀最初の怪物"が誕生しました。それは イングランド代表のマイケル・オーウェンです。当時18歳だったオーウェンは対アルゼンチン戦で ゴールを決め、W杯の歴史に名を刻みました。そしてベッカムもこの試合で退場を受け、試合は アルゼンチンが勝ちました。その因縁の対決が今大会2002年コリア・ジャパンの予選リーグF組で 早くも再戦が行われます。

今大会ではどんなドラマが繰り広げられるのかとても楽しみです。
さて次回はW杯が世界一のスポーツ・イベントと呼ばれる理由について説明したいと思います。

See Ya!!

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