2002年5月21日(火) 「伝説-其の弐〜王様〜」


昨日のコラムで取り上げた"サッカーの神様"に続き、今回は"サッカーの王様"を紹介したいと思います。

母国アルゼンチンからイタリアセリエAに移籍し、7年間所属したナポリでは2度スクデット (セリエAの優勝)を獲得し、欧州最優秀選手に1度、世界最優秀選手に2度輝いた選手。そして私が 初めて見たW杯で、初めて世界のサッカーというのを教えてくれたのも彼だった。その彼の名は "ディエゴ・マラドーナ"。

アルゼンチン代表として、そして神様ペレと同じ"10番"を背負って、W杯でも伝説を作りました。 初めて出場したのは1982年大会だったが、この大会ではそれほどの輝きを放てなかったが、次の 1986年メキシコ大会は"マラドーナによるマラドーナのための大会"と呼ばれるものになった。
この大会で5得点をあげ、決勝戦では西ドイツを破りアルゼンチンを優勝に導き、大会MVPとなる ゴールデン・ボール賞も獲得した。
大会MVPを獲得したから伝説になったのではありません。伝説と呼ぶにふさわしいゴールを あげたから、伝説になったのです。それは準々決勝対イングランド戦で生まれました。ゴール前に 上がったハイボールをキーパーと競ったマラドーナはゴールを決めました。直後、イングランドの 選手は主審に詰め寄り、ハンドだと主張しましたが、認められませんでした。試合後マラドーナは "あれは神の手によるものだ"と発言し、このゴールは"神の手"ゴールとして伝説になりました。しかし このようなゴールだけで"マラドーナによるマラドーナのための大会"と呼ばれるわけがありません。 マラドーナは同じ試合でもう1つの伝説を生んだのです。センター・サークル付近でボールを 受け取った彼は2人を抜き去り、そのままドリブルを続け詰め寄るディフェンダーやキーパーをも 交わし、ゴールを決めました。"5人抜き"と語られる伝説のゴールです。同じ試合で"神の手"と "5人抜き"を成し遂げてしまうところが伝説として語るにふさわしい人物になった要因かもしれません。

次の1990年イタリア大会では王者として迎え撃つ形になったわけですが、緒戦のカメルーン戦で まさかの敗北を喫してしまいます。それでも予選を突破し、決勝トーナメントも勝ちあがり、 緒戦の敗退が幻だったかのように決勝戦に進出しました。自分が覚えている中では"神の手"や "5人抜き"よりも伝説に近いプレーが決勝トーナメント1回戦、対ブラジルで生まれました。No.92の コラムでも書きましたが、センター・サークル付近でボールをもらった彼は敵を抜き去り、詰め寄る ブラジルディフェンダー陣に囲まれながらその内の1人の股を抜き、走り込んだカニージャが シュートを決めました。このパスを見て点を取るよりも点を取らせる決定的なパスを出す楽しさ、 そしてゲームメークの面白さを知りました。
準々決勝は日本でもおなじみのピクシー率いるユーゴスラビア。両チームの10番対決が注目された 試合でした。ユーゴスラビアが途中退場者を出しながらも、同点のままPK戦にもつれ込みました。 しかしマラドーナ、ピクシー共にPKを外してしまうという予想外の展開になりましたが、 アルゼンチンが勝ちました。最終的には決勝で西ドイツに敗れ、準優勝という結果でした。

その後、コカイン使用が明るみになり、サッカー界から追放されることになった。しかし次の94年 アメリカ大会には出場することができましたが、これといった活躍をできないままドーピング検査で 引っかかり、大会を去ることになりました。
サッカーというスポーツによってスターダムへとのし上がったマラドーナは、麻薬によって落ちぶれて いきました。それでもサッカープレイヤーとしてのマラドーナの名声は落ちぶれることはない。 それどころか波乱万丈に満ちた人生が"王様"としての地位をより高めているようにも思えます。 その証拠に母国アルゼンチンでは彼の背番号"10番"を永久欠番にするという話すら出ました。未だかつて サッカーの背番号で永久欠番になるという話は前代未聞のことです。それほどに彼の存在は大きなもので あり、"王様"として今後も語り継がれていくことになるでしょう。

次回は"皇帝、ベッケンバウアー"を紹介します。
See Ya!!

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