2003年8月21日(木)
「理由なき人間」



先日起きたバグダッドの国連事務所爆破テロ。戦勝国のアメリカではなく、イラク復興に努める国連を 襲うテロということで、ニュースでも連日トップニュースとして扱われています。

普通に考えると、国連の重役を殺害しようとした犯人が部屋の位置などの建物の構造を把握した上で 実行した計画的犯行でしょう、といったような報道がされていますが、そもそも普通に考えると、 自爆テロなんてしないのではないだろうか?更に普通に考えれば世界平和のために活動を続けている 国連を襲うなんてことが、まず普通じゃないのでは?仮に何らかの宗教や指導者を崇拝する信者が その信じる対象者からの命令で実行犯となったとしましょう、なんてことを言う人がいるかもしれない。 それを崇拝する時点で既に普通じゃないでしょう、ということになりませんか?

さて、そこで今回のコラムのテーマ"理由"です。爆弾テロを実行した理由は何なんだろう?という 議論になったとします。なぜ理由を求めるのでしょうか?これは人間の生まれもった性というものかも しれませんが、人間は何かにつけて理由を求めてしまいます。こんなことを書いている自分も様々な ことに理由を求めます。
でも世の中には理由のないことなんて、たくさんあるのではないでしょうか?子供達の異常犯罪が 増えているのはなぜか?といった問いに対しては特に理由なんてないんじゃないだろうか?というのが 私の回答です。
例えば冷夏の理由は?という問いであれば、今年は太平洋高気圧の張り出しがいまいちで・・・と 答えることもできるでしょう。これは科学的事象だから科学的理由、科学的根拠というものがあると 思います。でも子供の異常犯罪はそうではない。「気が付いたら〜」とか「何となく〜」とか、 そういった発言をする犯人が多いのも当然じゃないでしょうか?皆さんも「気がついたら〜」という 状況が今までに何度もあったはずです。例えば恋愛などはその典型的なものではないでしょうか? 「気が付いたらアイツのこと好きになってた」そんな経験あるのではないでしょうか?
それは極端だ!とか犯罪と恋愛は別だ!という人もいると思いますが、私からすれば根本は同じです。 どちらも人間の感情から発生するものであって、向かう方向が違うだけですから。恋愛対象が信仰の 対象に置き換わって、死が迫った恋人を救うための臓器提供が信仰の証に行う自爆テロに置き換わった だけのことです。
だからといって、臓器提供に心打たれることはあっても自爆テロを認める気にはなりません。これも 感情があるからだと思います。自爆テロが悪いことだから、というのは理由にはならない。もし そういう教育を受けて育っだとすれば、それが当たり前のことになるかもしれないから。ではなぜ?と なった場合、頭で考えるまでもなく、感情が自爆テロを否定します。

何が言いたいかというと、人間は感情の生き物だということです。
まとまりのない文章になってしまいましたが、乱文・乱筆お許しください。
最近ちょっと感情的になりつつある私でした。

See Ya!!

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