2004年5月19日(水)
「飛鳥涼論〜作曲家編〜」



本日より、前回の予告どおり、"飛鳥涼論"と銘打って、ASKAという人間によって、自分がどれだけの影響を受けたのかを、複数回にわたって書いていきます。第一回の今回は"作曲家"飛鳥涼について書きます。

「SAY YES」「YAH YAH YAH」といえば、ダブルミリオンを記録した名実共にCHAGE&ASKAの代表曲です。単純に考えてもバラードとアップ・テンポの両極端の曲でダブル・ミリオンという記録を獲得したわけですから、これって凄いことだと思いませんか?「Sons and Daughters」というコーラスをメインとした(アカペラに近いが、アカペラではない)曲は、先にも後にも日本の音楽界で聴いたことのないメロディーですし、またデビュー初期の名曲「一人咲き」「男と女」などの演歌ロック(当時こう呼ばれていた)なども考えると、とてつもなく幅広いジャンルの曲を作ることができ、なおかつヒットさせることもできる稀有な存在です。
中でも「WALK」「めぐり逢い」という曲は素晴らしいです。自分も少し曲作りをできるのですが、最初聞いたときは、どうしたらこんな曲が書けるんだろう?一体どういう頭の構造をしているんだろう?と唸らされました。昔のCDについていたカラオケ・バージョンと呼ばれるインストのみで聴くと、それがよくわかるのではないでしょうか?
通常、曲というのはAメロ、Bメロ、サビ、Cメロというのが基本構成で(Cメロがないものもありますが・・・)、それぞれ、これがAメロ、ここがBメロ、これがサビ・・・というのが鮮明にわかるものなのですが、ASKAの曲というのはこの区別をしにくいものが多いのです。
中でも上にあげた二曲はわかりにくい。もし、上の二曲を渡されて歌詞をつけてくださいと言われたら、一体どれだけのミュージシャンが詞をつけられるのだろうと思ってしまうような曲です。その曲にピタッと合った歌詞をつけてしまうところは"作曲家"ではなく、"作詞家"飛鳥涼の凄さだろう。いや、"ミュージシャン"飛鳥涼の凄いところと呼ぶべきだろうか?

考えてみれば「YAH YAH YAH」以前というのは、アップ・テンポの曲というのはB'zを除けば、売れることなど決してないバラード全盛時代でした。そこにこの曲が登場し、バラード全盛の時代が終わったと自分では思っています(思い入れがだいぶ入った強引な理論かもしれませんが・・・)。それと同時にCHAGE&ASKAの時代も収束に向かうのですが・・・。何はともあれ、バラード全盛時代を終わらせて、新しい時代を築くきっかけとなった曲だと思っています。
時代を築くきっかけとなった曲といえば「SAY YES」もそうです。小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」に続いて「SAY YES」が200万枚突破をしたことで、日本の音楽産業が一気に活性化していきました。その後シングルCDは100万枚突破というのがヒット基準という流れになり、音楽というのが市民権を得たわけですから。そうした流れの中で二年連続ゴールド・ディスク大賞(年間を通して音楽産業界で最も売上の大きかったアーティストに送られる賞)受賞という快挙を成し遂げたのです。

演歌ロック、バラード、アップ・テンポ、そしてヒップホップ(アルバム曲でたまに登場する)など多種多様な曲を書けるメロディ・メーカーとしての飛鳥涼。自分が曲作りを始めたのは、間違いなく"作曲家"飛鳥涼という存在があったからです。
曲作りを始めたおかげで今まで聴かなかった曲を聴くようになり、それが少なからず自分の趣味とか性格などに影響を及ぼしているはずです。これが転じて自分の知らないことに対しても、もっと貪欲になろうと思うようになったかも知れないなと思うこともありますし・・・(生まれ持った性格というのが大半だとは思いますが、曲作りをするようになってから、更にこの色が濃くなったと自覚できるほどですから・・・)、対人関係に関しても、以前なら嫌いな人は嫌い!とまったく関わりを持とうとしなかった自分が、そういう人からも何か得るものがあるかも知れない、と思うようになりましたから。
そういった意味で"作曲家"飛鳥涼が私に与えた影響というのは非常に大きいのです。

次回は"作詞家"飛鳥涼について書いてみたいと思います。

See Ya!!

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