MW -ムウ- |
手塚治虫生誕80周年記念ということで公開前は随分と話題になっていたが、公開後は尻すぼみに消えていった作品。事前に見ていたプロモーション映像がとても良かったので、実は期待していた作品でもある。
16年前にある島で起こった島民虐殺事件の生存者・結城は、エリート銀行員としての顔を持ちながらも、次々と殺害事件を起こしていた。同じ生存者であり結城の友人である賀来は、結城に救われたという事実に負い目を感じていたため、神父という立場にありながらも、不本意ながら彼に協力していた。
一方、島の事件を調べていた新聞記者は"MW"という謎の文字を頼りに16年前の事件の真相を追っていたのだが・・・。
薄っぺらい・・・。
見終わった直後に口から出た言葉がこれです。何が薄いって、もうストーリーしかり、人物設定しかり、CGしかり・・・。ありとあらゆる要素が薄っぺらい。これはもう脚本と監督の2つの原因以外、他の何者でもない。
まずは脚本。よくこれでGoサインが出たものだ!?と思わずにはいられないような穴だらけ。
例えば、一民間人が簡単に侵入できてしまう米軍基地の描写。どうやって入ったのか?の描写がなく、唐突に出てくるシーンから描写が始まる。これが物語の冒頭ならまだしも、物語の中盤から後半にかけて、物語としては完全に一筋の流れが出来ている中で、この省略の仕方はない。どちらかといえば、米軍基地からの脱出よりも進入シーンを描いたほうが内容的には盛り上がったのではないだろうか?
また宣伝では玉木と山田のW主役のような売り方をしていたが、この二人の関係性が薄く、山田の登場シーンはあまりにも少なく、完全なる脇役の1人に成り下がっている。また神父でありながら殺人に加担してしまう理由があまりにも薄い。逆に玉木演じる結城が山田演じる賀来に対して、なぜ心を許しているのかも、さっぱりわからない。
賀来に関して言えば、神父である必要性がまったくないし、男である必要もない。むしろ恋人にしたほうが自然だし、結城を助ける理由も作りやすい(三角関係のもつれとか、恋人が結城の妹とか・・・)。おそらく原作にはこの辺りの詳しい描写があるのだろうが、映画化にあたって、大幅にその描写が削られてしまったのだろう。もう1つ言えば、賀来の内面の葛藤を描くシーンがないため、見ている側としては、この賀来という男に感情移入できない。
一方の玉木。キャラクターを演じこんでいるというのは、銀行員としての冷静な顔、殺人鬼としての悪人顔、そして神父たちだけに見せる人間らしい笑顔と、それぞれの違いを見れば、とてもよく伝わってくるのだが、これまたいかんせんキャラクター設定の描写がなさすぎる。
結城が殺人を行う理由は、一言で言えば復讐なのだが、賀来と同じく、復讐にいたるまでの内面の葛藤が描かれていないため、復讐に対する理由が薄く感じられてしまう。もっと言えば、ただ殺人を楽しんでいる快楽者にしか見えない。
しいてあげるなら、「DEATH NOTE/デスノート」の夜神月のようなキャラクターが原作にはあったのかもしれないが、残念ながら映画の中ではそこまでの知的さや、ある種の人間らしさ(たとえ世間的には悪であっても、自分の中では確固たる正義感を持っている)を感じない。たとえ悪であっても、どこかに共感できる人間らしさがあってこその主人公であるべきではないだろうか?
どちらの場合も役者自身の問題ではなく、あくまでも脚本・監督の演出の問題なのだ。
その他のキャラクターも薄いこと、この上ない。例えば石田ゆり子演じる新聞記者。MWの秘密を発見するという重要な役どころなのだが、この秘密にたどり着くまでの描写も薄く、「えっ?もう見つけたの?」と言わずにはいられないような、あまりにもあっけない見つけ方をしてしまう。しかもあまりにもあっけなく死んでしまうため、この役どころが重要なのかどうかさっぱりわからない。(原作ではかなり重要な役のはずだと思われる。原作を読んでもいないのに、原作を引き合いに出している時点で、この作品のレベルもわかってしまう・・・)
個人的にはもう少しこのキャラクターを掘り下げて描いて欲しかった。そうすることによって、作品自体にももっと広がりが出たはずだし、なにより"MW"そのものの存在意義がより掘り下げられ、観客を引き込むことに一役買ったはず。
そして結城を追いかける刑事役の石橋凌。冒頭のチェイスに始まり、ラスト・シーンでの登場まで、賀来よりも、より主役に近い役どころだったが、これまた描写が薄い。いわゆる"刑事の勘"で、結城が犯人だと絞り込んでいくのだが、本当に"勘"だらけで、まったく論理性が無い。本来、非常に優秀なはずの刑事が、"勘"だけで動いているようにしか見えないような描き方はもったいない。どうせなら、賀来の役そのものをなくし、こちらの刑事をより深く描いてくれたなら、善悪の違いがよりはっきりし、シンプルに作品を伝えることができたのではないだろうか?
監督の演出という意味では、もっともひどかったのが、賀来が飛行機から飛び降りるシーン。上空何千メートルで飛行機の扉が開いているにもかかわらず、賀来の周囲の空気はまるで地上であるかのように風が吹いておらず、体がぐらつくことも無ければ、髪が風になびくことすらない。
もう1つあげるとすれば、視界をさえぎるものなど何もないたっだ広い平原のような場所で、逃げる賀来と新聞記者を上空のヘリから射撃するシーン。このような条件下で、ヘリからの銃撃を走って逃げられるのだろうか?仮に脚本がそうであっても、そこは監督が別の演出方法を取るべきだろう。
冒頭の身代金の回収方法とカー・チェイスのみ、おぉ!と思わせる瞬間はあったが、ハリウッド映画で見られるそれとは、やはり別物。具体的にはギア・チェンジをするシーンがUPであるのに、その直後に引き絵を見せて加速感を伝えるといった工夫がなく、これもやはり監督の演出の問題だろう。さらに全体を通して見た場合、このシーンが一番盛り上がっていたという残念感も否めない。
「LIMIT OF LOVE 海猿」では高度なCGを堪能させてくれた日本映画界だが、今回はかなりの安っぽさに落胆させられました。進化どころか退化してしまっている。これはフジテレビと日テレの差だろうか?
特に軍用機で東京上空を飛ぶシーンはひどかった。背景と機体が馴染んでなさすぎて、違う意味で驚かされた。
日本映画にしては珍しく、人を殺すのに何のためらいもなく、バンバン殺害していく主人公のキャラは新鮮ではあったが、そもそも、この作品は冒頭にチェイスシーンを持ってきたり、安っぽいCGで東京上空に軍用機を飛ばしたりといったアクション映画ではなく、登場人物の心理を描きながら、サスペンス映画として作るべきものだったのではないだろうか?
海猿はあくまでも最初からパニック・アクション中心の作品として脚本段階からじっくりと作られてきたであろう作品。しかしこの作品はアクションが見せ場ではなく、あくまでもサスペンスが中心であるべき作品だと思われる。それをなぜかアクション中心に見せる演出になってしまっている。ここがもっとも悪い点かもしれない。
登場人物の内面描写がほとんどない脚本も悪いが、監督の演出次第でここまで作品がひどくなりうる例としては、非常に素晴らしい作品です。違う意味で原作を読みたくなったという意味では、この作品は成功なのかもしれません・・・。